
「ありがとう」と「有り難い」

毎年、今の時期は次年度の新卒採用活動として、学生さんの面接を数多くする機会に恵まれる時期です。
そして、学生さんの面接時に、当社への志望動機は?と必ずお聞きします。
その時半数以上の方が、シューワグループの経営理念「世界一ありがとうを集める企業」に共感したと言って貰います。
非常に嬉しい半面に「ありがとう」について補足説明をしています。
「ありがとうございます」は、もともと「有り+難し」、つまり「有ることが難しい(めったにない)」という意味。
「ありがとう」と「有り難い」はどちらも感謝を表す言葉です。
シューワグループは、大手企業には出来ないニッチで隙間商売でありながら、お客様からたくさんの「ありがとう」を頂戴する仕事。
学生さんに説明をする中で、単なる綺麗ごとの「ありがとう」ではなく”難が有る事を改善”して実現をする。
これがニッチなビジネスモデルですよとお伝えをします。
その様に考えますと昔から「有り難う」は、「難しいことが有った時に神に向かって感謝の意を伝える言葉」だと聞いたことがあります。
昔の人は天の神に向かって手を閉じて「有り難や、有り難や」と言っていましたね。
だから、僕は「有り難う・ありがとう!」と常に言っていると、それは「神に向かって感謝の意を表していること」と同じではないかと常に思っています。
「サンキュー」はその相手のみに向かって感謝の意を表す言葉です。
どうせ感謝の意を伝えるのなら「サンキュー」よりも「ありがとう」と言って、相手と神様の両方に感謝の意を伝えたほうが良い人生を送れると思います。
皆さんもご存じの方も多いと思いますが、105歳まで「生涯現役」を貫いた日野原重明医師。
先日、テレビ特集で日野原医師が取り上げられていました。
とても感銘を受けましたのでご紹介したいと思います。
日野原医師の数奇な人生を語る上で、避けられない2つの大きな出来事がありました。
一つ目は記憶にも新しいと思いますが、「地下鉄サリン事件」です。
平成7年3月に13人が死亡し、約6300人が負傷した「地下鉄サリン事件」の際には、院長として聖路加国際病院を開放する決断。
その当時83歳だった日野原医師は、オウム真理教による大規模テロに対して被害者対応のリーダーシップをとり「これはただ事ではない」と直ちに判断。
外来患者の診察など通常の業務をほとんど中止した上で、被害者約640人を受け入れたとの事でした。
BCP事業(事業継続計画)に携わっている者としてもとても興味深かい話です。
日本BCPの中井部長曰く、聖路加国際病院にもBCP対応の営業に行ったそうですが事業継続計画は完璧なものだったそうです。
日野原医師が多額な費用をかけて作られたBCP対策だともお聞きしました。
もう一つは、昭和45年の「よど号ハイジャック」事件です。
もう古い話なのでご存じの方は少ないと思います。
航空機「よど号」がハイジャックされ、人質として4日間拘束された経緯があり、死ぬかもしれないと恐怖を感じながらも無事開放されました。
奥様と抱き合った時に、生かされたこの身を誰かのために生きようと決心されたそうです。
亡くなる直前のインタビューも含めて、生きていく人間として愛にあふれた生き方のメッセージが込められていました。
105歳で亡くなられた日野原医師の最後のお言葉は、「ありがとう」だったそうです。
日野原医師の人生のお言葉は非常に柔らかく優しく心に響きました。
日々、仕事をしていると色んな問題や課題がたくさんあって大変なことも有りますが、毎日健康で生活が出来る事自体が素晴らしく「有り難い、有り難い」事だと改めて気づかされました。
たとえ今は、不幸な事でも後々考えると「有り難い」事になると思えるようになりました。
「有り難い」の思考で今日も感謝して生きる!!
そして、「ありがとう」も「有り難い」も素直に言える人になれたら素敵な人生だと思います。
日野原医師の表情や言葉に、沢山のメッセージを頂き勇気を貰えました。
もう一つ心に残った言葉として「野球で云えば、私の人生は、9回から」と云うのも、カッコが良いと思いました。
105歳まで生涯現役・日野原医師、人生訓示としての「有り難い」お話しを「ありがとう」御座いました。
—-日野原医師は1911年、メソジスト教会の牧師、日野原善輔の次男(6人きょうだい)として山口市で生まれた。
7歳の時、父親の赴任先である日本メソジスト神戸中央教会(現・日本基督教団神戸栄光教会)で洗礼を受ける。
幼い頃から医学の道を志し、37年に京都帝国大学医学部を卒業後、41年に聖路加国際病院に内科医として赴任した。
92年、同病院院長に就任し、その後、名誉院長や同大名誉理事長を歴任。
また日野原さんは、日本で最初に人間ドックを開設し、早くから予防医学の重要性を説くとともに、終末期医療の普及にも尽力し、「成人病」と呼ばれていた一群の病気の名称を「生活習慣病」に改めたことでも知られている。
※よど号ハイジャック事件は、1970年(昭和45年)3月31日に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空機ハイジャック事件。
日本における最初のハイジャック事件である。