今週の日曜日、本来は名古屋で開催される予定だった大相撲七月場所が無事に終了しました。
今年のコロナ禍では、何でも自粛・延期などで萎縮してしまう世の中でしたので、普通に相撲が見られたのが嬉しかったです。
2500名限定の観客ですが、観客は声を出すことができず拍手だけの声援となりましたが、観客がいるというだけで力士たちを振るい立たせるものですね。
そして、幕内最高優勝は、平幕の照ノ富士関の幕じりの十九枚目「奇跡の復活優勝」という劇的な結果で終わりました。
本当に素晴らしいの一言です。
私が贔屓(ひいき)にしていた大相撲の若きヒーローが帰ってきました!!
しかも!悲劇の主人公で! 大拍手!!

平成27年の大阪・春場所千秋楽後の懇親会に(伊勢ケ浜部屋)私も出席をさせて頂きました。
当時は、まだ駆け出しの若い関脇でしたが、勢いがあり隣で記念写真を撮らして頂きましたが、とても体が大きくてビックリした記憶があります。
そして、素朴でやさしいお人柄に一気にファンになりました。
その後、5年前に初Vの翌名古屋場所で大関昇進。
14場所にわたって大関で活躍し、横綱候補と言われたものの両ひざのけがに悩まされ、さらに糖尿病やC型肝炎にも体をむしばまれていたとの事。
17年の九州場所で大関から陥落すると、大関経験者としては史上初めてとなる幕下にまで番付を下げ、一時は序二段にまで降格しました。
新聞によると、これまで複数回の手術を行った両ひざの痛みは想像を絶するもので洋式トイレにすら座ることができない時もあったといいます。
伊勢ケ浜親方(元横綱旭富士)に何度も繰り返すように”引退したい”と申し出ましたが、そのたびに突っぱねられたそうです。
照ノ富士関は、28歳とまだ若く、伊勢ケ浜親方の「後悔させないように、ケガで負けて終わってしまわないように。(引退は)ケガを克服して本人も納得できてからと思った」との言葉に諭され、土俵に帰って来ました。
伊勢ケ浜親方から必ず幕内に戻れると太鼓判を押され、部屋では番付が下がれば課せられる付け人の責務を免除してもらうなど周囲のバックアップもかなり大きかったと聞きます。
序二段と言うのはいわゆる「ふんどし担ぎ」と言われる下から二番目の地位の番付。
国技である大相撲の「看板」とされる大関から序二段まで落ちるというのは想像を絶する屈辱だったかと思います。
まわりの心無い人たちからは、「大関の品位品格を守るため、潔く土俵を去るべきだ」という意見もあったと思います。
序二段の土俵に帰ってきた照ノ富士の体つきを見た時、筋肉は落ち、皮膚もボロボロで、正直悲しくなるくらい弱々しい姿でした。
とても復活は難しいだろう・・・。というのが私の素直な感想でした。
しかし、そこから不屈の闘志で勝ち星を重ね、番付を戻して体つきも、そして鋭い眼差し逞しさも戻ってきました。
今場所の照ノ富士関の体つきなどを見ると、大関時代に近いと思うほど筋肉が張っていました。
相当な努力を積み重ねてきたのだろうと感服します。

総勢600名と言われる相撲社会の中、下から二番目の序二段・地獄の淵に足を踏み入れて乗り越えてきました。
その精神力はとても強くて考え方も卓越しています。
だからこそ、優勝インタビューでもあれほどに冷静沈着で、かつ堂々としていたのだと考えます。
大相撲の・関取力士としても「鑑」のような存在だと思います。
どんな境遇でも「諦めずやるべきことはやる。」お見事としか言いようがないです。
照ノ富士関の様にどん底に落ちて這い上がった力士は未だに記憶にありません。
もし、この境遇が自分自身だったらどうなるのでしょうか?!
序二段・地獄の淵に足を踏み入れて人間的に凄く成長したと思います。

照ノ富士関は優勝インタビューで「いろんなことがあって最後にこうやって笑える日がくると信じてやってきた。一生懸命やったらいいことがあると。やってきたことを信じてやるだけだと思っていた」と話していました。
まさに「焦らず・慌てず・諦めず」が重要で仕事にも通じる基本の徹底はとても勉強になりました。
28歳の照ノ富士関からいろいろと教えて頂き!勇気をもらいました。
おめでとう! そしてありがとう!

↓懇親会にて
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筆者:矢野秀和
シューワグループ
代表取締役